NICのカンボジア教育
プロジェクトについて
2011年より、本学代表・校長の廣田和子は、アジアの国の恵まれない子供たちへ、生きることのBottom(基本・基礎)である「教育」の支援として、人と人をつなげ、未来を人材を育てる「国際教育プロジェクト」の活動を始めました。
このプロジェクトを通して、世界の様々な環境に生きる若者たちがつながり、次世代のリーダーとして未来の社会を担ってくれることを願っています。
第1回カンボジア教育プロジェクト
開催レポート
2013年6月2日〜7日、カンボジア・テアイ村のテアイ中学校にて、英語と日本語、そして日本文化を教える教育プロジェクトを行いました。カンボジアでは、学校の校舎建築や、孤児院のサポートなどを行っているNGOや個人の方は多いのですが、実際に学校に入って授業を行うということは、初めてに近い試みだそうです。今回は、NIC International College in Japan代表・校長を務める廣田和子、スタッフ、そしてNICの卒業生で、村の一般家庭にホームステイしながら、現地の中学生と交流を深めました。
第1回カンボジア教育プロジェクトの様子
カンボジア・ネパール日誌
廣田和子
カンボジアが無事おわりました。大変貴重な体験でした。4人(私、NIC大阪校 事務局長の舘敬悦さん、NIC卒業生の佐藤大樹さん、水間優ちゃん)のチームワークは素晴らしかったです。カンボジアでの数日間は、まるで、時空を超えて1日が1週間のように時間が長く感じました。クラスが終了した時は本当にみなで万歳をしたいくらいでした。しましたっけ?あんな達成感は、ありませんでした。みな汗だくだくでした…。敬ちゃんは日本語, 優ちゃんは日本文化で忍者。ひろきから聞いたところによると、優ちゃんはある忍者アニメの作家を訪れて忍者グッズをたくさん用意したそうです。敬ちゃんの日本語も、ひらがななど、50音を書いた用紙や、学生にあげるものなど、これも短い時間の中最高の準備をして、クラスを湧かしていました。
私たちは同時進行で教えていたので、となりの湧き上がる声をお互いに意識しながら、それぞれのクラスを担当しました。なんともいえない集中力でしたね。自分のクラスが終わると、他のクラスのところへ集まってきて、外の窓からみているのです、大変な人気でした。どうやって知ったのかわかりませんが、クラスが終わって帰るころには、学生があちらこちらから集まってきてくれました。
ネバダ州立大学で2年学んだ後、タイの大学に編入したひろきは、さすがタイに2年も住んでいたので、状況がよくわかり、細かい気配りが半端ではありませんでした。自分の会社を経営しており、私も大変な時も知っていますが、それを乗り越えてきた底力があります。今回改めて、すごくなったな、と感じました。頭がきれる。そして、思いやりが深い。アジアで過ごし、鍛えた力だと思いました。私の英語のクラスも手伝ってくれましたが、私たちのクラスの写真とビデオを撮ってくれていました。ビデオは優ちゃんがすぐにまとめてくれるそうです。
カンボジアをでる前の夜、Sethaという、私が2年前初めて出会った生徒のお兄ちゃんとプノンペンで会いました。医学生なのですが、お金がなく大変な思いをしているという話を聞きました。カンボジアで10番以内に入る優秀な学生です。心が辛くなりました…。医学生の1年の学費は、24万円だそうです。Vichet とも話して、なんとか仕事も見つけたりして、今後立派な医者になれるように、考えて、ヘルプしようと話をしました。カンボジアは、特に医療と教育が不足しています。
私の英語のクラスでは、将来の職業は、圧倒的に、
I want to be a doctor. Or. I want to be a teacher.でした…。
英語は、皆科目として好きなものでした。
3度目の訪問でしたが朝早く帰る時、空港行きの車の中で、汚い街並みを通り過ぎるのを見て、なんだか、涙がなんども流れました…。子供達の顔が頭に浮かんできて、なんとも言えない気持ちでした…。
今回の3名の皆様、敬ちゃん、優ちゃん、ひろきには、言葉ではいいつくせないほど、感謝しています。ほとんど自費で参加したひろき、優ちゃんたちでしたが、ひろきは私が誘った時、「お金には変えられない体験なので、ぜひ」と言って参加してくれました。少しですが、香里基金からの奨学金を出しました。優ちゃんは、「奨学金を頂いたのですから、なんとしても、頑張って成功させたい」と、言っていました。たった19歳で、敬ちゃんと私に張って堂々とクラスをやり抜いた根性は、涙ぐましいほど立派でした。
機会がありましたら、このすばらしいNIC OBにお礼を伝えてください。
ネパールは、以前来たインドのようです。ガイドなしでは、きついです。これから小さな飛行機にのってポカラという町にいきます。
ここネパールは、思っていた以上のギャップを感じます。カンボジアが日本に近く感じるぐらいです。今日は朝早く起きてボートに乗って、しかも、漕ぐ小さいボートで、45分かけてレイクを渡ります。山の麓に着いてからは、またそこから30分かけて山を登ります。1時間半近くかけて到着したのは、とある小さな、小さな、小学校。生徒は全部で25人しかいません。皆、貧しい子供達です。
戻ってから聞いたのですが、このレイクで、最近9名が溺れて亡くなったそうです。ガイドさんも実はドキドキだったと先ほど夕食の時話してくれました。佐渡で、昔、たらいで海を渡った話を思い出していました。陸にたどり着くまでは、往復とも本当に怖かったです。
ネパールではほかの学校も訪問しましたが、みな貧しいところが多いです。子供達は日本のものは嬉しいとのことでしたが、カンボジアで会った子供達が多かったので、こちらにはたくさんもってこれませんでしたが、子供たちに鉛筆を一本一本手渡しすると、みな嬉しそうに抱えていました。
ネパールは私には、以前訪れた半分、いえ、それ以上インドのような感じがします。カンボジアは、藁、木、トタン、ですが、こちらは、石、レンガ、トタン、です。
カンボジアとはまた違った、ゴミゴミしさがあります。やっと、今日が最後の日で、この喧騒や、ひしめき合っている街中が、普通に、目に、体に入るようになりました。学校を紹介して下さった、ネパールのNGOの方、ヒラチャンさんの部下、ビシュヌさんがこちらで一緒に同行してくれましたが、ほかのスタッフの方も、本当に優しくていい目をしたネパール人たちで、救われます。今日最後で、これから食事にいきます。明日日本に帰るのがなんと幸せか…。
すごくいい、子供達の写真ももらって帰ります。学校や子供たちの情景があまりにすごかったので、写真とビデオを撮りすぎて、私のカメラは充電を切らしてしまいました。なので、その後、ビシュヌさんに撮ってもらいました。彼は現在もジャーナリストだそうで、いい写真を撮ります。そのビシュヌさんと、私の全行程を同行した日本語を話すネパールのガイドさん、ヒマルさんと、これから最後の食事です。
カンボジア、ネパールと、同じアジアですが、印象が違うのですね。
日本人には、使命があるのでしょう…。カンボジアにしてもネパールにしても、日本人や日本の企業がかなり寄付をしています。帰ってから、今後私たちができることを、考えたいと思いました。教育は一部の人のためだけでなく、求めるすべての人が受けられるべきなのではと、思わされました。
東京、大阪のみなさん、メッセージありがとうございます。特にネパールでは、一人でいるので、シェアできると、ホッとします。きつい時はメールも書けないですが、やっと、終わって嬉しいです。学びと感じることが多かったです。
今、食事を終えて部屋に戻ろうとしたら、カウンターのバーの隣でピアノを弾いていました。足を止めて、ピアノを聞こうと、カウンターに立ち寄ったら、ピアノマンが、私を見て、突然、"上を向いて歩こう" を弾き始めました。思わず、涙が出そうになり、歌の詩ではないですが、上を向いてしまいました…。素敵な最後の晩になりました。
山の上の学校 朝礼の様子
3歳から学校へ通い始める
廣田先生、ネパール、カンボジアの一連のご報告ありがとうございました。廣田先生からのメールが届くたびに、現地での廣田先生の活躍が目の当たりに広がり、心に響いてまいります。
そして、また、昨晩、スタッフの皆さんに送られたメールを読ませていただき、強く感じたことは、廣田先生が立ち寄ったバーで聞いたピアノの調べは、かおりちゃんから廣田先生への賞賛とエール、と感じたのは私だけでしょうか。 (かなり前になりますが、)広島のガイダンス終了後、廣田先生と向かったバーから聞こえてきたピアノの調べ(確か、かおりちゃんの好きな曲でした)、また、横浜でのダンスのデモンストレーションの後、立ち寄った品川のバーから聞こえてきたピアノの調べ(これもかおりちゃんの好きな曲でした)、いつも、廣田先生が大事を成し得たとき、必ずと言っていいほど、ピアノの調べが聞こえてきますし、かおりちゃんを感じずにはいられません。本当にお疲れさまでした。無事の帰国をお待ちしております。 浅尾
今、カトマンズのホテルから、空港に向かう前です。バンコクで4時間も待ち時間がありますが、到着は木曜日の朝になります…。
さよならネパールと言って、部屋を出ました。大変だったけど、また、多分来るのでしょうね…。ちえ(浅尾)ちゃんのメッセージ受け取り、思わず昨日泣けた理由と、なんで、ピアノが聞きたくなったのかもわかった気がします。2度泣きです…。ありがとう…。
改めて、自分のmissionを今回感じました。その為にも心身ともに、強くなくてはと、思いました。三浦雄一郎さんが、80 歳でエベレストを登頂して "My life just begins" と言った言葉が、感動的でしたが、私も、私が出来るすべてを頑張ろうと思いました。では、空港に向かいます。
手漕ぎボートに乗って目的の村へ向かう
山の上の小さな村の学校に通う生徒とその先生
山の上にある学校の校舎
今朝、6時半に羽田につき、メリーを途中PICK UPして、8時前に家に戻りました。 不在中はいろいろと有難うございました。 忘れないうちに、まとめておこうと思います。
まず、カンボジアの方は、敬ちゃんと私の以前の報告で状況は解ったと思いますが、Theay 中学校を最初に訪問した時は、まだ古い壊れそうな校舎を使っていました。その後、学校を建てる会という日本のNGOが入って(これもVichet が校長に申請の仕方を教えたそうです。) 校舎が建ち、今回はきれいな教室になりました。400人ぐらいの学生全員を学年毎、クラス毎に、教えらたので、全員が幸せそうでした。報告にもあったように、学生は皆、ふざけた子はほとんどおらず、授業を受けようとする真剣なまなざしがありました。最初の日はこのために、学校全体を休みにしていたそうです。
授業の中で What is your character? のところでは、みなshyですが、自分はfriendlyと答えていました。指されたら、すぐに立ち上がって、皆、英語で答えようとしていました。席を立たないと、回りから立ちなさいとつつかれてしまいます。400人もいて、英語の先生はたった二人ですが、このGraceとPhilという(英語name ですが)先生はとても熱心でいい先生でした。優ちゃんと一緒にサポートしたサテは、生物の先生ですが、少し英語がわかるということで、手伝ってくれました。
優ちゃんは忍者の服を二つ持っていって、自分とサテに着せました。サテは、最初、忍者の格好にちょっと、しり込みしていたのですが、でも始まったら、とてもその気になって、どんどん熱が入っていました。終わったあとは、先生の顔も見違えるようでした…。
その他にも優ちゃんはたくさんの忍者のgiftを持ってきたと言っています。忍者は子供たちに大人気だったので、本当に準備が大当たりして、素晴らしかったです。
大人気だった忍者のクラス
生活は貧しいですが、皆、とてもいい顔をしていて、いつも目の奥が澄んでいます。それと、変な満たされた感がないので、いい意味で皆ハングリーで、そして、好奇心が旺盛です。携帯電話はあるらしいですが、コンピュターはありません。郵便事情も悪いので、出来た写真はVichetに送って(プノンペンに住んでいます)、彼が直接、学校に届けに行くと言っていました。 電気は最近繋がったそうですが、普通のうちは本当にわらっぽい家の中の薄暗い中で生活しています。トイレは普通ありません。私たちが泊めてもらったVichetのいとこの家にはあったので、その家族はその村の名士の家ということになります。私が最初訪問した時には、その家には現地のトイレはあったものの、もちろん、紙も流せません。自分で水を汲んでながします。今回は、2階に形が洋式の、座るトイレができていました。シャワーも初日にはなかったのですが、2日目にわざわざ取り付けたみたいです。これも私たちのためにしたと、Vichetが笑って言っていました。
夜は蚊や虫がすごく多いので、蚊帳(日本で昔使っていましたが)をつって、そのなかで寝ます。部屋は二つありましたので、充分でした。蚊帳の上は、虫がたくさん乗っていて、最初みな、笑いながら、びっくりしていました。 娯楽も何もないので、夜が来ると寝て、朝は早くから起きるという具合でした。
学校は近くにありますが、バイクでお父さんが順番に私たちも乗せていってくれました。その後、ひろきがバイクを借りて 私も乗せてもらえました。とても暑く、学校では、私たちはみな汗びっしょりで、顔からも汗がたらたらと流れていました。そのなかでも子供たちとの授業はすばらしいものがありました…。とても優秀でよく英語を話せた中学3年生の女の子から、ずっといてくださいと真剣に言われました。「会えて嬉しい、私もあなたのような人に(先生だと思いますが)なりたい」としっかりした英語で、心からの感謝の言葉をもらったときは、本当にこの子の未来を見た感じがしました。きっとこの子も将来を担う子のひとりになると思いました。
物質的には貧しくても、心は豊か
2年前初めて訪れた時は、出会った生徒のなかでSethaがとても印象的でしたが、今回この生徒が際立っていました。
その2年前に会ったSethaはいま、高校生になっていました。お兄ちゃん(例の医学生)は、私と大学のコンピューターを使ってメールで連絡を取っていました。そのやり取りの中に、Sethaの連絡先も入っていたので、私はSethaに連絡を入れてみました。私たちが授業を行った日は、高校から許可をもらい学校を休んで、私たちのクラスに参加しました。
プノンペンの大学にいるお兄ちゃんはどうしても私と電話で話したいと言ってきていたのですが、電話は繋がらず(よく聞こえない)、様子がわからなかったため、Sethaもどうしていいのかわからない様子でした。英語をよく理解してないようでしたが、私の説教にもめげず、私が先生とのmeetingが終わるまで、じっと私のことを待っていました。(ひろき、敬ちゃんが側で笑っていました。−多分、可哀相にと思っていたのでしょう。)ようやく最後のmeetingが終わり、「一緒にhome stay先の家で食事をしよう」と誘ったら、"Do you allow me ? "(一緒に行っていいのですか?)という英語で聞いてきました。こちらの子、特にこういう優秀な子は、謙虚なんです。食事も私が手を付けるまで、じっと待っていたと優ちゃんが言っていました。
私は、VichetからSethaのお兄ちゃんに連絡を入れてもらい、プノンペンで会うことにしました。「お兄ちゃんと会うから安心しなさい」と、不安げなSethaを納得させました。少し先にも報告しましたが、その後、私はプノンペンでお兄ちゃんのRathanaと会いました。彼は私とプノンペンで会った時、私の名刺を握り締めていました。私が「それ、Sethaにあげた私の名刺でしょ。」と言ったら、「そうです。Sethaからもらってきたんです。」と言っていました。先のカンボジア DANA のNewsletterにも書いてありますが、初めて学校を訪問した時、Sethaと言う生徒に出会い、名刺をあげました。2度目の職員室棟の開所式の際に会った時、Sethaが私の名刺を握り締めていたので、新しいものをあげました。その一つをお兄ちゃんが持っていたのです。お兄ちゃんとは始めて会ったのですが、彼は私のSpeechをどこかで(開所式の時でしょうか)、聞いていたらしく、私に会いたがっていたのです。私はあまり状況がわかっていなかったのですが、Vichetが、彼が私を尊敬していること、そしてとっても礼儀正しい学生であること、また大変優秀であることなどを伝えてくれました。そんないきさつから、帰る前の晩、プノンペンでRathanaと会ったのです。小柄で、がりがりで、食事もあまりとっていないようでした。家からの仕送りも大変なようで生活費が払えないということで、食事も住まいも無料のお寺に住んでいます。光熱費として月2ドル50セント(約250円)だけかかるのですが、それでも大変だそうです。学費は医学生なので年間24万円、さらにその他の生活費と、なにしろ、ぎりぎりの中で生きている様子はよくわかりました。英語はしっかり話せて、お寺のお坊さんから学んでいたそうです。やはり、Sethaと同じく、I am sorryでなく、"Forgive me for taking your time" (貴女の時間を費やしてしまって申し訳ありません)という言葉を何度も使って、私の時間をわざわざ使って会ってもらうことに対して、ずいぶん恐縮していました。医者が少ないので、人を救いたいという思いで、どうしても医者になりたい・・・。しかし、そのためのお金があまりにもかかり、生活が切迫しているという感じがありました。先にも書きましたが、カンボジアで上位10番以内に入る優秀な学生だそうで、Vichetも若い時の自分のような感じがしたようでした。
それからネパールに行ってからもRathana からメールが入りましたが、私の厳しい話と、何事も"but"を言わず、バイトもしっかりやって、やりこなしなさい。何でもtryすること。そうすれば、必ずみな(私も含め)がおのずと助けてくれる。ただ助けては、だめ。やりきりなさい。と言いました。会って話をした時にも、「その言葉は永久に心にとめておきます。」と、何度も言っていましたが、メールにもそのように書いてきました。
"I will never forget what you said, and keep it in mind forever. I will do my best." (あなたに言われた言葉は絶対忘れない、心に永久に刻み込みました。私は自分の全てをかけてがんばります。)まだ、たった19歳です…。いずれ彼はカンボジアを担う素晴らしい医者になると思います。
Vichetも、その大学の医学部に入ったけど、難しくて法律に変更したと言っていました。その後日本の大学の奨学金を得て、日本の大学で学びました。Vichetは、カンボジアでは、裕福な家庭の出身ですが、それでも奨学金できています。物価があまりにも違いますからね。これはネパールも同じです。日本に留学はしたくても、物価が高くて出来ないと日本語を話すネパールのガイドさんも言っていました。ネパールも、学問の分野にもよると思いますが、大学は年間20万円弱かかるそうです。いずれにしても、10万〜20万円ぐらいが年間の学費でしょうか。
ネパールでは訪問した学校はprimary school(小学校)が多かったので、皆、貧しかったです。ネパール人のヒラチャンさん(今回ネパール訪問を手配してくださった方で、大阪に住んでいらっしゃいます。)がネパールのNGO、ESODECを作っていて、そこから21の学校の支援をしています。子供の学費は国が出しますが、奨学金、制服、鉛筆、ノート、かばんなどは自分で買う必要があります。そのお金がありません。もちろん、寄付で校舎など建てたり、壊れそうな校舎を建て替えたりしているようです。校庭での遊び場はまだ何もありません。ヒラチャンさんがいろいろな仕事をしていますので、大使館、政府の人、誰でもcontactがあるそうです。学校への寄付は日本人か日本の企業がほとんどです。個人で寄付をしている人も多いそうです。奨学金はひとり、年間2400ルピー(約2400円)です。21の学校で約100名の優秀な学生に寄付を募って、それぞれの学校の優秀な子に渡されます。
ヒラチャンさんは、ネパールの生活状況をあげるために、現地でいろいろな事業を展開し、現地の人々の生活と仕事に繋げています。今回、カトマンズにいるスタッフが私をヘルプしてくれました。今回訪問した学校の中から、授業を行える所を探すのは、少し難しいですが、ひとつだけ、候補の学校があります。1年生から8年生まである、120人くらいの小さな学校です。教室と小さな教員室だけがある、古びた学校で子供たちが学んでいます。あともうひとつ、心に残った学校は、湖を渡った山の上にある生徒数わずか25人の学校です。とても貧しいので、子供たちへの援助をぜひしたいと思いました。どこへもいけない所で、山の中、90の家族が住んでいます。人口は約400人。一人の家族が4人ぐらいということです。これは写真を見れば解りますが、いい意味で、time machineに乗って、ハイジーの世界に入りこんだような所です…。こんなところが今でもあるのですね…。そちらの山から降りる時、ある子供の家で、lunchをごちそうになりました。本当に質素な家と、簡単なネパールの食事で、ガイドさんは右手でご飯を上手に取って食べていました。ネパールの食事はインド風の味に似ていて、刺激が強かったので、最初は、おなかの調子をみつつ少しsave しながら、食べていました。この時のlunch は豆と焼いたジャガイモとたくさんのご飯だったので、なんとか普通に頂きました。
カトマンズは以前訪れたインドの南のバンガローみたいな、ゴミゴミした感じがして、車、オートバイ、ひと、ひと、で、何だかひしめきあった感じがしました。プノンペンも最初は、オートバイ、トゥクトゥク、汚い町並みなど、慣れなかったですが、ネパールを思うとまだまだ、落ち着きすら感じます。Theay村から、プノンペンに戻った時、川のほとりにヨーロッパ人が行くレストラン街を見たときは、思わず、ヨーロッパだ。と言ったら、優ちゃんに、" 廣田先生、これがヨーロッパに見えるなんて、相当変になっているよ…。" と笑いながら言われたのですが、ネパールにはあまり、そういう場所がないような気がしました。あのレストラン街が、懐かしくすら思えたのです。
でも、どちらも共通していることは、生活水準がもかなり低いこと、教育もかなり粗末なものであること、それを支える個人の物資がないこと、学校には遊びや、スポーツなどできる施設がないこと。ネパールはバレーボールとかサッカーボールが欲しいといっていました。(敬ちゃんがカンボジアの学校に持っていきましたが)家は基本的に粗末なところに住んでいます。それと、制服は基金で買ってもらっているので、替えがあまりありません。カンボジアでも、破れたのを着ていたと優ちゃんが言っていました。
数日滞在していると、汚いのも慣れてきて、トイレの使い方も普通になってきました。 全てにおいて、欧米、そして、日本の生活とは極端に違う生活水準を見てきましたが、NIC、およびNIC-NGO、香里基金が今後出来ることがあると思いますので、今後の計画をしていきたいと思います。たくさんでなく、少しの額でも奨学金や、教育生活費に当てることが出来たら、子供たちは幸せだと思いました。
恵まれたところに生きていることは、それだけで幸せなことだと思います。でもその境遇におごらず、自分たちが出来ることをすることが、逆に自分を磨き、人としての成長に繋がるのではないかと思います。教育は人を見ること、関わることですから、私たちはそういう心を自分自身も育てることで、人として、豊かにしてもらえるのではないかと思いました。contribute(貢献)と言う言葉がありますが、むしろ、dedicate(献身)という言葉のほうがあっているかなと思います。
自分自身の持っているものを、すべて投げ出す。それがtryでなく、自然にnaturalに出来るようになることが一番人として、素敵なことだと思います。まず最初は、なんでもtryからでもよいかと思います。カンボジアの先生サテも最初は躊躇して"I will try" なんて、言っていましたが、最後は本当に、本当に、素晴らしい笑顔になっていました。心が燃えてきたのが顔に出ていました。本気になっていました。
追加ですが、次回ネパールで、小さな5人乗りのボートで山の上の学校に行く場合は、life jacketを用意してもらうことにしました。ビシュヌさんとガイドのヒマルさんは、笑って承諾してくれました。ふたりとも私にはまた是非来て欲しいのと、その貧しい山の上の学校を訪れてほしいという希望がありました。
私は個人的にはあの小さな学校が気に入っているといったら、ビシュヌさんもボクもだと嬉しそうでした。彼もジャーナリストをしていて、このような教育支援をESODECに入ってするようになったと言っていました。とても優しい、いい人です。次回はヒマラヤが見える10月から3月の間に訪れるのがよいと言われ、私もそのほうが癒されると思いました。今回見れなかったので…。ネパールの人気はなんといっても、たくさんあるヒマラヤの山登りをするトレッキングなのですね…。それと、カンボジアはVichetの出会いがなければ、あの中学校と出会えなかったので、これは本当に直感が当たったと思いました。あのような、私の目的にあった学校に出会うのが簡単ではないという事が、今回、ネパールを訪問して思いました。カンボジアの学校は会うべくして会ったのですね。香里の職員室棟もオレンジ風で、素敵です。また、香里の写真も飾ってあるので、きっと香里も子供たちを見守っているのでしょう…。よかったです。今回子供たちとも本当にふれあえたので…。
カンボジアのオレンジの色(屋根)の校舎の写真が送られてきて、それを見て、心が動きました。そして、今回につながったのですから、すべてがserendipityでしょうか…。ネパールは、これからでしょう。 また、新たなるものが生まれると思います。今回のESODECの人たちと出会って、この人たちと繋がることで、教育支援が意味あることになるということを確認できたことは、とてもよかったです。ネパールの子供たちの顔もいいですよ…。ぜひ、写真で見てください。
ところで、また、思い出した追加情報ですが、ネパールは停電が多く、山の方に行くとしょっちゅう停電があり、ホテルでも真っ暗になります。懐中電灯をおいてありますが、私も以前フランスの自然体験の時に、フランス人にもらった、ちいさな胸につける電灯を持って行ったので、夜は手にもって寝ていました。あと、カンボジアの学校では、コピー機がないので、敬ちゃんが450枚コピーを作成してもっていってくれたので、助かりました。いろんな文明の利器がまだまだないです。カンボジアで、突然あの村の家にバッチをつけたPOLICEが夜現れて、パスポートの確認にやってきました。それで、コピーをとりたいからもって行くといわれて、私がメチャ反論したので、びっくりして大騒ぎになりました。結局私たちが村にあるお店のコピー機で、コピーを取るからということで、次の日、今度は私服で若干優しい顔をしながら、またコピーをとりにきました。何かあってはいけないから、ということで、保護の為らしいのですが、今どき、ウエスタンのカウボーイ時代の保安官が突然えらそうに現れた感じで大騒ぎでした。なにしろ言葉が通じないのですから。英語を話す人がいないのです。その家のお父さんは自称話せるといっているのですが、全然通じない…。英語を話しているらしいのですが、わからないので、"Is it English? "と私が聞いてしまったくらいです。ひろきが側にいて、それっておかしいって、笑っていました。そのお父さんは"no problem, no problem"とそれだけ言って、笑っていて、私に心配しないでと、盛んに気を使っていました。最後はVichet に電話をして、私と話すということになりました。要するに、私たちが行ったのが村中の大騒ぎ、うわさになっていて、それでは、俺も、と、そのポリスマンもinvolveしたかった(仲間に入りたかった)んじゃないの…。というのが、ひろきの予測で、とりあえず、笑って終わりましたが、なぜ、パスポートなのかよくわかりません。あそこは、別の国なのでしょうか…。みたいな…。問題は言葉が通じないので、その気疲れも大変ありましたが、大概のことは、なんとか、笑って理解した、あるいは、そういうことじゃないの、という理解したつもりで、言葉が通じなくても、その家族とは、とても仲良くできました。生徒ではないですが、みなさんとても、friendlyでした。カンボジアの人たちの英語の発音は独特で、言葉がこもって中に入ってしまうので、Teacher, Doctorもよく聞かないと、なにいっているか、わからない状況でした。慣れてくると発音の仕方がわかるので、大体言っていることがわかるようになりました。途中から、私の英語クラスでは、発声練習もいれました。それに比べると、Sethaのお兄ちゃん、Rathana の英語は本当に、きれいでした。
人生で起こることは、すべて、"It’s meant to be." (起こるべくして起こる) そして、それは、必ず次の"serendipity"(予期せぬよい出来事) に、繋がるのでしょう…。このAsia/Cambodia project も videoに優ちゃんが記したように, to be continued…です。
廣田 和子 記
カンボジア教育プロジェクト
2023夏レポート
株式会社GMQ 取締役(当時)
佐藤 大樹SATO Hiroki
タイ王国ランシット大学国際経営部卒業
NIC第11期生 千葉県立土気高校 出身
テアイでの生活は私にとってとても貴重な体験となりました。
照明もなく太陽の光を頼りに勉強する教室で子供達が一生懸命メモを取りながら授業を受けていたのが印象的でした。早速休み時間に、授業で覚えた英語で What sport do you like? など使って私に質問してくる子がいたり、笑顔で英単語を並べてコミュニケーションを取ろうと努力している生徒が沢山います。
しかし現実をみると、栄養不足で中学生にもかかわらず、日本の小学生位の身長しかない子が大勢いたり、家の農作業を手伝うため学校に通えない子供たち、そして生徒数に対して圧倒的に少ない先生の数。
問題は山積みですが、授業を受けている子供達の笑顔をみると、お金や物ではなく、教育を提供していくという今回のプロジェクトは大成功だったと思います。
今後もNIC OB生皆様の海外で培った経験を活かし、定期的にこのプロジェクトから教育をテアイ中学へ提供していくお手伝いができればと思います。
ホームステイ先のVichet家のみなさんと近所の生徒達
水間 優MIZUMA Yu
2013年6月 カリフォルニア州立デアンザカレッジ進学
NIC第25期生(大阪校第1期生)
大阪府 金蘭千里高校出身
カンボジアプロジェクト自体には、前からとても興味があってNICのDVDなどを通して、廣田先生が香里基金により多面的にカンボジアに貢献しているのを、ワクワクして見ていました。
今回、自分がそのプロジェクトに参加できることとなり、自分だけが学生であり、教えた経験もないので、少しプレッシャーに恐くなったこともありましたが、自分にはカンボジアの中学生に何ができるかだけを考えました。そして何より自分自身がこの貴重な経験を思いっきり楽しもうと意気込みました。
準備だけは怠ってはいけないと思い、日本文化を教える授業でどうすれば子供たちに、五感を通して学んでもらえるか色々練りました。結局、忍者がすごく面白いのでは?と思い、さっそくアニメ「忍たま乱太郎」の作者、尼子騒兵衛さんにアポをとりました。今回のプロジェクトについて折行ってお話すると、こころよく引き受けて頂き、ゴムで作られた手裏剣150個、カードとパズル300枚、忍者の服に似たTシャツやハチマキなど色々な支援をして頂きました。
カンボジアの小さな村、Theayにつくと、日本とはあまりにも違う環境にとても心が動きました。村の子供たちは裸足で遊んでいて、ヨレヨレの服を身にまとい、だれもぽっちゃりもしていません。でもその村にはたくさんの自然、家や学校の屋根、壁などの美しいオレンジ、黄色、水色など美しい"色"がありました。そして、なにより村の人々の謙虚さや優しい笑顔と、子供たちの純粋な心に自分自身が癒され、惚れ込んでしまいました。
学校では英語の先生2人と生物の先生が通訳として助けてくださいました。私は生物の先生とペアで、最初はかなり緊張されていましたが、授業が始まると私が話す英語が分からずとも一生懸命になって、生徒と私を一つにしようと助けてくださいました。先生への感謝ととともに本当に一人では何もできないことを、身をもってその時感じました。私は生徒に体験して発言してもらうことをモットーに、手裏剣ゲームやゴムでできた槍を使ったショーなど、色々先生と話し合って二人でクラスをつくっていきました。教室の窓からはたくさん小さな子供たちが手裏剣を羨ましそうな目で見ていて、最終日には手裏剣ゲームと忍者見たさに、生徒が教室から溢れました。最終日の授業が終わると、いろいろな子供達からサインを頼まれました。サインを頼まれたのは人生で初めてで(そしてこれからの私の人生で最後になると思うのですが)、びっくりしましたが、生徒のみんなに私の授業が喜んでもらえた証だろうと一人で自己満足的に考えつつ、自分がいかに幸せな体験が出来たかを実感できました。また、教育とは本当に幅が広く根が深いものだなと考えさせられました。
今回のカンボジアプロジェクトはこれからの私の人生においてとてつもなく、大きな影響を与えてくれた体験になりました。そして、一緒にこのプロジェクトを成し遂げてくださった廣田先生、舘さん、ひろきさんは素晴らしい方々です。みんなで毎日川の字になって寝たり、4人で朝昼晩テーブルを囲みご飯を食べ、笑い合い、時には相談しあい、励まし合って、そして感動を分かち合えた日々は忘れません。今回カンボジアの中学生に教えに行ったにもかかわらず、いろいろなことを私自身が、子供たちやカンボジアの人々から教わりました。今回カンボジアで出会った子供達、人々に心から幸せが続くことを願って、私なりのmissionを考えて生きていこうと強く思いました。
NIC大阪校事務局長(当時)
舘 敬悦TATE Keietsu
中学校でのプロジェクトは、とっても素晴らしかったです。今回お世話になった村は、トイレの普及率もたった20%というところです。お風呂もありませんし、シャワーも当然ながら水だけです。
夜は9時くらいに寝ます。朝は鶏と犬と牛の声で5時くらいに起きます。家中にいる大きな虫たちも、天井のヤモリやトカゲ、カマキリも、2日目には慣れました。
子供たちは、毎日3時間しか授業時間がありません。午前11時には学校が終わり、午後は、家の手伝いをします。裸足で歩いている子もたくさんいます。家の仕事も大変なので、中学1年生は200人いても、2年生では150人、3年生では100人と減っていきます。17歳でも中学2年生、19歳で中学3年生という子もいます。栄養不足なので、背も小さい子が多いです。
授業が終わったあとも、みな同じ村に住んでいるので、道端で出会います。散歩していると、みなニコニコして声をかけてくれます。散歩もみんな、あとをくっついて来て、最初は3人だけだったのが、いつの間にか30人くらいになります。
おじちゃんもおばちゃんもみんなニコニコしています。私は日本語を教えましたが、どんな小さなことでも一生懸命聞いて、ノートをとります。とてもシャイなので、大きな声では話しませんが、こちらが大きな声を出すと喜んで大きな声を出します。学年が上になると、日本と同じで、不良っぽい子もいます。そういう子でも声をかけると恥ずかしがりながらしゃべります。
どのクラスにも40人中、2人くらいは、シャープな、将来のカンボジアを背負って立つような子がいました。びっくりしました。
アンコールワットに1日行きました。そこのガイドさんに、今のカンボジアは日本人のおかげだと言われました。プノンペンの橋も、アンコールワットの修復もみな日本がやっています。全然知りませんでした。日本人は改めてすごいと思いました。ガイドさんはポル・ポトの時代に子供時代を過ごした人で、友達が地雷で亡くなったり、旦那さんの両親や兄弟はみなポルポトに虐殺されたそうです。
「日本に生まれただけでラッキーです」と言われました。本当にそうだと思いました。
ビジェットさんのいとこの家にお世話になりましたが、とても良くしてくださって、ご飯も毎食たくさん出て、だれも下痢をすることなく、日本から持っていたカップラーメンも一度も食することなく、水にもあたることなく過ごすことができました。
カンボジアは今急成長中ですが、それでもGDPはひとりあたり10万円です。月8000円です。1日300円以下で生活しています。貧富の差がとても大きいので、実際はもっとひどいです。
豊かな国に生まれた人間には、それはそれは本当にミッションがあると思いました。たった1週間でしたが、日本に帰ってきてから、ものを見る目が変わった気がします。この熱さを忘れないうちに、次のアクションをおこさなければならないと思いました。